【吉川愛歩さんエッセイ】思い出の母の味 “鮭と大葉のレモンおにぎり”

もうすぐやってくる「母の日」。あなたには、ふと思い出してしまう母の味はありますか?食のライター/料理家の吉川愛歩さんにとってのそれは、「鮭と大葉のレモンごはん」なのだそう。今でも印象深いという20代のある日の思い出を綴っていただきます。

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吉川愛歩(よしかわ・あゆみ)

吉川愛歩

よしかわ・あゆみ

食のライター・料理家。暮らしと食の出版やコンテンツ制作に携わる。「物語のある料理」「特別じゃないけど記憶に残るごはん」をテーマに、記事執筆やフードコーディネートを行っている。

Instagram:https://www.instagram.com/yoshikawaayumi/

ことり、と音がして顔を上げると、目の前におにぎりがふたつあった。

「食べなさい。いま、お風呂沸かしてくるから」
母はわざと忙しそうにして、お皿を押しやってくる。おなかなんかすいてない、と言いそびれ、受け取ってしまったおにぎりを見つめた。

見ただけですぐにわかる、鮭と大葉が入ったおにぎりだ。ごはんにレモンをきゅっと搾り、香ばしく焼いた鮭をほぐして、刻んだ大葉と胡麻をたっぷり混ぜこむ。運動会にもピクニックにも、母はよく作った。

懐かしさにつられておにぎりをひとつ、口に入れる。ごはん粒がほろほろと口の中でほどけ、ああ、ここに帰ってきてしまった、と思った。

ひとつの恋が終わり、ふりだしに戻ってしまった私は、何も考えられずただおにぎりを咀嚼した。そういえばしばらくちゃんと食べてなかった気がする。ゆっくり噛みしめてみると、胡麻のぷちぷちした食感とレモンのほろ苦さを感じた。ふたつのおにぎりはきれいに私の中に収まり、キリキリしていた胃がすこし和んだ。

突然帰ってきたのに、母は何も聞かなかった。まるで昨日もそうしたように私の寝巻きを脱衣かごに入れ、バスタオルをふわっと投げてきて、「入んなさい」と言う。お風呂めんどくさいな……とは思ったけれど、ここは言うことを聞いておいた方がいい。母と暮らしていたときの感覚がひゅっと蘇ってきて、はいはいと立ち上がった。

「そういえば今日、どこで寝る?」
「え?」
「だって、布団……」

そう言われてやっと気がついた。そうだ。私の布団はあの家に持っていったままなのだった。

「ソファで寝る」
「違う違う。ベッドじゃなくて、上にかけるもんがないんでしょ」
「あー、そっか。なんかないの?」
「ないのよねえ……」

うーん、と唸って私は置いてきた布団のことを思った。あれ、どうしたらいいんだろうか。残りの荷物はともかく、布団を持って帰ってくるのはいろいろきつい。
 
「とりあえず今日は母さんの隣で寝なさい」
「……うん」

ゆううつなのが伝わったのか、母はそれ以上何も言わなかった。

母と一緒に寝るなんて、いったいいつぶりだろう。小学校にあがるころには子ども部屋があったことを考えると、5歳か6歳。きっとそのころから母とは寝ていない。

ちょっと恥ずかしくなって、先に寝るからねと言われても、テレビを観ているふりなんてしてしまった。いよいよ眠たくなって母の部屋に行ったら、うすく明かりがついていて、ベッドの半分がちゃんとあいていた。

そうっと布団に足を潜らせると、母の足とぶつかった。

「つめたい」
「あ、ごめん」

母はうしろから私の足先を自分の両足で挟み、ごしごしとこすった。母の足の裏はすこしガサガサしていて、なんだかそれが妙に気持ちいい。私は母に背を向けたまま、足を預けて目を閉じた。

足がこすられる音に、ときどき母がちいさく息を吐く音が重なる。爪先がほんのり温かくなっていって、こすられるたび何かが修復されていくような感じがした。

ずっとここにいれば、傷つくことなんてなかったのに。

涙がぽつんと落ちたら、どんどん流れてきて、堪えきれずに鼻をすすった。

母は足を止め、今度は手で私の背中をさすってくれた。涙と鼻水を静かに枕が吸いこみ、吸いこまなくなるほど流れ、とうとうしゃくり上げながら泣いた。母も泣いているようだった。泣いて泣いて疲れて眠り、また起きて泣いた。夜中のうちに何度も起きて、そのたび母は背中をさすった。

翌朝起きると、鼻をかんだティッシュがベッドの脇にたくさん落ちていて、ゴミ箱にも母が鼻をかんだティッシュが山積みになっていた。

「コーヒー。飲む?」
「ああ、ありがとう」

庭の手入れをしていた母に罪滅ぼしのようにコーヒーを持っていくと、母の目はかわいそうなくらい腫れていた。

ガーデンテーブルに母のカップを置き、私もコーヒーを飲む。インスタントのコーヒーは古かったのか、香りがあまりしなかった。あの家で飲んだいい匂いのコーヒーをつい思い出し、うっかり出そうになった涙を慌てて引っこめる。

目をしばたたかせていると、
「ほら、これあんたに去年もらったやつ」
と、母が小さな白い薔薇を指さした。それはフェンスに寄り添うように蔓を伸ばし、たくさんの花をつけている。

「……もしかして、母の日の?」
「そう。今年も咲いたの。きれいでしょう。こっちは一昨年もらったやつだったかな。これは……もういつのかわかんない」

クレマチス、カーネーション、ラベンダー。私が歴代の母の日にあげた鉢植えは、ぜんぶ母の庭で生きていた。

「すごいね」
「知らなかった?」
「うん」

最寄り駅に着いてから母の日を思い出し、駅前で慌てて買った鉢植えばかりなのがすこし後ろめたい。

「毎年毎年、こうやって咲いてくれるの」
「なら、今度はもっとほしい花買うから言ってよ」
私がそう言うと、母は笑った。
「花の種類なんてなんでもいいのよ。もらうのが嬉しいんだから」

母はコーヒー片手に庭を満足そうに眺め、それから私を見た。
「ひどい顔ねえ」
「……そっちもだよ」
そうつぶやくと、母は眉をさげてにこりとする。

「さ、顔洗って布団買いに行くわよ。もう、あんたはほんとに寝相が悪いんだから」
「えー!! 今から?! めんどくさい」
私は声を荒げて反抗した。
ほんとうは、もう一晩母の手を借りたかったのかもしれない。

――

あれから長い時間が過ぎて私は母になったけれど、はたして自分が母みたいな母になれているかは疑問だ。

いつか娘が目を腫らして帰ってきたら、私はどんなふうにしてやれるんだろう。
そのときばかりは母のように、ほら食べなさいってあのおにぎりを握ってあげたい。

<鮭と大葉のレモンごはん レシピ>

    <材料>
  • 鮭 2切
  • 炊いたごはん 2合
  • 塩 小さじ1/2(鮭の塩分によって調整)
  • レモン汁 1個分
  • 大葉 6枚
  • 白ごま 大さじ1と1/2
  • レモン 1/4個

<作り方>
1. 鮭をグリルで焼く。
2. 温かいごはんに塩とレモン汁をかけ、しゃもじで切るように混ぜる。
3. 鮭の骨と皮を取ってほぐし、2に混ぜる。
4. 千切りにした大葉と白ごまも混ぜ、うすく輪切りにしたレモンを飾る。

執筆・撮影:吉川愛歩
編集:ノオト

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