【大平一枝さんエッセイ】母とお茶うけ

【大平一枝さんエッセイ】 母とお茶うけ

もうすぐやってくる「母の日」。あなたが思い出す、母の姿はどんなものですか。文筆家の大平一枝さんによる「母」をテーマにしたショートエッセイをお届けします。

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 生まれ育った長野はお茶うけ天国だ。野菜や果物を煮たり漬けたり、あらゆる方法で保存食にして、お茶の引き立て役にする。古くは10時と15時、農作業や森林作業の合間に野外で塩分や栄養補給をするために必要だったのが、広く習慣化されたという郷土史の一節を読んだことがある。海がなく、山の多い痩せた土地で過酷な労働を続けてきた先人にとってお茶うけは、茶の湯の発展とともに深まった茶菓子とは違い、日々に不可欠な補助食だった。
 採れすぎた杏やかりんを甘く漬けて、1年楽しむ。寄り合いでは、自家製のたくあんや野沢菜を持ち寄るので同種の漬物がいくつも並ぶ。そこで食べ比べをしながら隣の味や知恵を交換する。私が幼い頃はすでに誰もが漬けるというわけではなかったが、母は今でも小さな樽や瓶に10種以上は何かしらお茶うけ用の保存食を作っている。

▲我が家のお茶うけ。干し柿バターサンドと甘梅は自作。唐辛子の三升漬けは母作。かまぼこ添えて

 小梅のカリカリ漬け、杏の甘酢漬け、唐辛子味噌、桜の葉の塩漬け、ゴーヤと糸昆布の佃煮、花豆煮……。同じ甘味でも、甘ずっぱいもの、甘じょっぱいものいろいろある。
 ところが私は、長い間お茶うけが苦手だった。おやつはお菓子と相場が決まっている、大人はなんであんなおかずみたいなものをおいしそうにお茶のあてにできるんだろうと不思議だった。きっと子どもの多くはそうだったに違いない。
 私も妹もろくに食べないのに、母は懲りずに毎年あれこれ作っていた。客が来ると小皿に何種も並べる。そして、はたから来客を見ても「あれは遠慮ではなく本気のノーだ」とわかるのに、じゃんじゃんお茶を注(つ)ぐ。それが彼(か)の地のもてなしの流儀だった。漬け込むときに何を加えるとなすが色落ちしないか、たくあんは酸っぱくならないか、母は近所の年配の主婦にコツや隠し味を聞いてはメモをしていた。

▲母と私(拙著『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』より)

 だから冷蔵庫にはいつも、鉛筆書きのメモがぺたぺた貼られていた。誰々さんのたくあんは天下一品なんだよ、と自家製があるのに、おすそ分けを大事そうに父に切りわけていた。
 あの頃の母の年齢をとうに越してぼちぼちわかってきたことがある。きっとお茶うけは母にとって大事なコミュニケーションツールだったのだ。

 公務員の父の仕事の関係で長野県内を3、4年単位で越して歩いた。新しい街、見知らぬ官舎の人の輪に飛び込むと母は、必ず早い時期からご近所さんをお茶に招いていた。差し入れの漬物を「ああおいしい。どうやって作るの?」と教えを請う。縦に長い長野県は、北信・中信・南信で方言も違えば、気候に合わせて特産物、食文化も変わる。たとえば同じおやきでも、地方によってふわふわ、硬め、小麦が採れない木曽地方などの山間(やまあい)では蕎麦粉で作るように。
 マイホームを持つまで母は、どこの官舎でもたいてい年下だったので、その地方のお茶うけを教えてもらうのは貴重な人付き合いのとっかかりであり、コミュニティに溶け込む術(すべ)のひとつだったのだろう。

▲ポットは萩焼・牧野窯。黒豆茶や番茶もこれ。母譲りの器道楽になってしまった

 子ども心にも、冷蔵庫のメモの数だけ、母に友達ができたんだなとわかった。知らない土地で子育てをする不安を、お茶うけはどれだけ消し去ってくれたことか。母には、かつての農作業をする人々と同じように必要不可欠な時間だったのだ。

 この2年半で、実家に半日しか帰れなかった。
 ビデオ通話で話せるので寂しくはないが、ごぼうの麹漬けや甘酢大根の柚子巻きを味わえないのは無性に寂しい。時々保存容器に入れて送ってくれるが、それじゃだめなのだ。厚手の湯呑に何杯も「もういいから」と言うまでおかわりを注ぎ続けるあの無骨な手。ジャジャッと空(から)の音を立てた魔法瓶に「あれま」と肩をすくめ、「よっこらしょ」とまた湯を沸かしに腰を上げる母が卓のむこうにいないと。
 注いだり注がれたりしながら、まったりと流れるお茶うけの時間に宿っていたものが、今はとりわけ恋しい。今年はゆっくり食べられるだろうか。小皿がぎっしり並ぶあのちゃぶ台で。

写真:大平一枝
編集:ノオト

大平一枝(おおだいら・かずえ)

大平一枝(おおだいら・かずえ)

文筆家。長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)、ほか多数。『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)では本欄でもふれた母親のお茶うけはじめ信州のお茶うけと女性の生き方について探求。
HP『暮らしの柄』
インスタグラム
https://www.instagram.com/oodaira1027/

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